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【10】てのひらの闇(前編)



 奇跡のようなバランスで構成されている一方で、人間の感覚というものはひどく曖昧な部分があるという。
 例えば痛覚だ。
 体の何処かに傷があると仮定しよう。痛覚は生命活動への支障を告げるための重要なシグナルだ、当然傷は痛む。(言わずもがなだが、この場合麻酔を使用している場合や、致命傷であっさり死に至る場合は除外する)
 ここで、別の箇所にさらに強い痛みを与えてみる。すると不思議なことに、前者の部位に感じていた傷の痛みは『分からなく』なってしまうそうだ。
 分からなくなったからといって、傷が癒えたわけではない。小さな傷ならば自然に治っていくが、それなりの傷なら的確な処置が必要だ。
 心もまた然り。
 外傷の手当てを怠るがごとく、痛みを痛みで誤魔化して上塗りを重ねていくようなことを続ければ、心も少しずつ本来の形から歪んでいく。


 ―――さて、ここに一人の子供がいる。
 適度に不遇でそこそこに悲惨、言ってはなんだが非常によくある話だ。
 両親との縁の薄さに早々に見切りをつけて思慕の対象を他へと移し、
 不要と判断されるよりも引き金を引くことを選び、
 失うことを恐れて自分のものではない呼び名に返事をする。
 比較し選択し切り捨てて、痛みをなくそうとしてはさらに傷を作り、泥沼へと嵌まりこんだ。
 見ないふりをされた痛みは澱んで凝り、やがて『てのひらのない男』として象徴化する。
 子供はもう、何を失くしたのかわからない。



【09】NOWHERE



 既に夜明けが近い、深夜のアミーゴ横須賀。
 月明かりだけでもさして不自由はしなかった。光に少し対応が遅れる分、自分の目は暗闇が得意だ。薄く浮いた汗をぬぐい、江間は息を付く。

 夜遊びの習慣はなかったが、昼間亘理に容赦なく腹をやられた分が夜になって効いてきた。内部のダメージは外傷よりも治りが遅い気がする。横になっても眠れるどころか、吐き気と鈍痛で呻いて一時間。動いていたほうがマシな気がして起き出した。
 どうせなら一暴れしてこようと、同じアパートの住人のバイクを借りて外へ出た。

 鉄槌で重く風を切る。
 わざと瓦礫を鳴らしながら反対側のフロアへ足を進めれば、足下から水音がした。目を落す。まだ濡れている肉片を踏んで、ぬるりと僅かに靴底が滑った。
 周囲に目を配ると、戦闘の跡が目に付いた。どうやら先客がいたらしい。
 その推測を裏付けるように、奥から明らかに人の声が聞こえた。接触は面倒なので踵を返そうとして―――しかしその声に聞き覚えがある気がして足を止める。
 見れば、声の主はちょうど沸いた最後の一体を打ち倒すところだった。ひらめくマフラーを残像に影が走った。
 見覚えがあった。短髪の。覆面の。背はそう高くない。無駄なく引き締まった体。歩いてくるというその動作だけで柔軟なバネを容易く想起させる鍛えられた筋肉。
 流茶野・影郎。
 同級生だ。交友範囲が広く、あちこちでよく見かける。カフェにもよくふらりと遊びに来ては、皮肉とも揶揄ともつかないことを楽しげに喋っていく。一見淡々とした独特の喋り口や、意外なほどのノリのよさが好きで、会えばつるむ仲だった。
 瓦礫の隙間からのぞく月を見上げれば、既に沈み始めている―――深夜の3時過ぎだ。どうしてこんな時間にという疑問は、今の江間の頭に浮かばない。
 ゆっくり瞬きして見物していると、新たに闇が凝る気配がした。

 うおおおおん うおおおおおおおん

 鬼哭。
 再び大量のリビングデッドが沸いて出る。
 教えこまれたが故の反射で瞬時に数を把握し、少し多いなと思う。
 流茶野は近接戦闘型―――その独特の体術ゆえに、特に単体相手にその能力を発揮するタイプだ。一対多数が苦手なわけでもないだろうが、さすがにあれだけいると面倒だろう。
 鎚の柄を確かめるように軽く撫でて、混じるつもりで歩み寄る。
 声をかけようといつもより重い口を開きかけたところで、流茶野がこちらを見ないまま呟いた。

良いね、考える余裕が無いのって
「…だろ、だからここ好きなんだよねェ」

 心から相づちを打ったのに、振り返った流茶野は驚いた顔をした。話しかけられたと思ったのだが、単純に独り言だったらしい。いぶかしむ響きで確かめるように名前を呼ばれる。エマ?
 なあに。

「どしたの。片付けよーぜ」
 
 鉄槌を片手でくるくると廻して顎で促せば、流茶野は了解したように軽く頷き、表情を苛烈な戦士のそれへと一転させた。





【08】影を重ねた。

 美術室帰りだという蜜琉と別れ、江間は無意識に詰めていた息を静かに抜いた。
 蜜琉はいつも江間をあたたかな光でずぶ濡れにしたが、だからこそ時折自分の薄暗い部分を問答無用で自覚させられる。目を逸らせばいいだけの話なのにどうしても出来ない。
 想いを寄せる一方で、伸ばす手をとどまらせるのは身勝手な憧憬だった。
 きっと違いすぎる。蜜琉はとても眩しい。

 背後から迫る気配に気づいたのはそのときだった。振り向きかけた時には、腕が肩に回っていた。引き寄せられてぎょっとする。

「―――何びびってんだよ、」

 耳元で低く笑われ、聞き覚えのある声に眉根を寄せた。顔を向けると、案の定獣のような金の目が笑っている。精悍な体躯、くすんだピンク色。
 亘理・計都。
 笑ってはいるが何かを探るような目に既視感を覚えた。

「ナニ、」
「お前もっとはしゃぐだろ、いつも。あの人といると」
「はァ? …意味わかんねェ、」
「どうしたんだよ」
「…だからナニが?」
「ふーん」

 やけに絡んでくる亘理に僅かに苛立ち、離せと軽く肩を捩る。常とは違い接触が気に障る。
 敏い相手だ、常ならばこれで察するはずが、逆に指先に力を込められてぎくりとした。苛立ちに似た何かを感じるのは気のせいか。

「…んじゃ、GTでも行くか?」

 一瞬躊躇する。正直気乗りはしなかった。江間にとって亘理は同列で同属、近しい部分を感じるからこそ弱味は見せたくない相手だ。
 断りかけ、それも不自然かと思いなおす。
 だるく応じた。






 一人はあまり多くを言葉で語ろうとせず、
 一人は饒舌だったが大事なことをすぐに取りこぼす。




 
 

【07】 浮かんでは光る、


 あの子は踊る。
 あの人は歌う。
 あいつは潰して、
 オレも潰す。



 さあ おたちあい!


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